⑦平成11年発刊の草間区誌
この草間区誌によると、草間氏は1394年に草間の地に城を築き約167年に渉り、この地を治めた。五代草間主殿介浄養のとき1559年の川中島合戦で武田勢により、居城を焼かれ、浄養は上杉謙信を頼り越後に亡命、その後、1561年の川中島合戦で討ち死した。これにより草間の地は武田氏の手に落ちるが、後の武田氏の滅亡、織田信長の死後、再び上杉領となり、越後に亡命していた豪族たちは、還住したが、草間氏は主家が入封のため、還住は叶わなかった。当地に草間姓が1軒もないのはこのため。とある。
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■草間の先祖は殿様だった。
●奥様に伺ったお話によると、この“草間”の地名は、かつてこの地を治めた草間氏からきているもので、草間氏は室町時代の頃からこの地を治めるようになり、城も築いていたようです。(写真⑥)しかし、川中島合戦の際、武田軍勢により城を焼かれ、越後に逃れ、上杉謙信の配下となったということです。このためこの地には、草間姓は1軒もなく、新潟県高田には20軒程草間姓を名乗る家があると聞いているということでした。
●いずれにせよ、草間(私)のルーツは、殿様であった(可能性が大きい)というのは、大きな感動でした。そもそも私は、茨城県の農家の生まれで、高校卒業後、上京し、そのまま東京に居着いて30数年もたっているわけですが、いまだかつて同じ草間姓の人には計3人の人にしか会っておらず、草間という苗字は非常に珍しい姓と思っていました。ところが茨城県の実家の近所には草間姓が数軒もあり、この中で、我家が本宅と呼ばれていたため、もともとは最初の草間姓を名乗る人がどこからか移り住んできて、今の草間家があるのだろうと思っていました。そこで、親父に『ご先祖はどこからきたのか』と聞いたことがありました。親父も何代も前のことで、良くは分からないが、言い伝いによれば、ご先祖は“測量の仕事”をしながら各地を渡り歩き、最終的にこの地が気に入ったようで、定着したらしい。ということ。このことを聞いてから、多分ご先祖は江戸時代あたりにこの地に移ってきたのだろうとは思っていましたが、今回のことを加味して推理しますと、この“測量士”だったというご先祖は高田に逃れた草間一族の1人であったのではないかと思われるのです。こんど茨城県の実家に帰ったら、菩提寺を訪ね、過去帳を見させていただき、また別の角度から草間のルーツを探ってみたいと考えています。この結果はまた、報告させていただきます。
■全国の草間さん、お便りください。
●ところで全国に何人おられるか分かりませんが、全国の草間姓の方々で、このコラムを読んでいただいた草間のみなさん。ぜひ感想をお送りいただければ幸甚です。
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