社長コラム
President column
代表取締役 草間又男(くさままたお)
草間の苗字について
草間の姓に興味をもったきっかけ。
平成18年9月5日に某セミナーにて、皇位継承問題に関してのお話しをいただく機会がありました。この日は秋篠宮紀子さまのご出産を迎えた前日ということもあり、特別な興味を持って拝聴しましたが、このお話の中で、もし皇室典範改正で皇位継承に女帝が認められるようになり女帝が誕生すると初代天皇の神武天皇以来なんと約2600年間、男子から男子だけに連綿と引き継がれてきた〝Y染色体〟が消えてしまい、ゆゆしき事態になるということでした。
人はそれぞれDNAとか遺伝子とかで、ご先祖の姿、性格、性質等を少なからず受け継いでいるという認識はありましたが、人はその人の最初のY染色体を変わらず、ず~と何万年でも受け継いでいくというのは驚くべきことでした。
しかし、草間の地には何もなかった。
ここに至り、ふと思い起こしたのは自分(草間)の場合はどうなのだろうということでした。そして、2年程前に知人からいただいた草間の苗字のルーツの資料(写真①)があったことをあらためて思い出したのです。最初、これをいただいたときは、『私のご先祖は、長野の方からきたのか』程度にしか思わなかったのですが、このY染色体のお話を聴いて、ぜひともこのメモを手がかりに草間姓の起こりを探ってみたいと思ったのです。早速、長野県軽井沢に宿泊先を予約し、その週の土曜日(9月9日)地図を頼りに長野県中野市草間の地(草間地区)を訪ねてみました。しかし、予想はしていましたが、地図中草間と書かれた地には何にもなく雑草が生い茂っているのみでした。(写真②)
龍徳寺
ここで記念写真を撮って帰ろうとしたとき、あらためて地図を見ると、近くに龍徳寺(写真③)というお寺があることに気付きました。せっかくここまできたのだから草間姓に関して何か分かるかも知れないと思い、この寺を訪ねてみることにしました。しかし写真のように、龍徳寺の本堂は堅く扉が閉じられており人が居る気配もありません。
ここでも写真だけ撮って帰ろうとしたとき、何を思ったか同行の妻が玄関の戸をドンドンと叩き『ごめんください』と大声で 叫ぶではありませんか。いつもながら妻の勇気と行動力には驚かされます。しかし、このおかげで、龍徳寺ご住職の奥様にお会いでき、寺内を快く案内していただき、おまけに(写真④)のような草間の殿様の位牌を見せていただくことができました。
また、この後、半月程してから、この草間地区の歴史を編纂した〝草間区誌〟(写真⑥)という貴重な文献をお贈りいただきました。これは草間氏の起り・推移が詳細に分かる貴重な資料です。
草間の先祖は殿様だった。
住職の奥様に伺ったお話によると、この草間の地名は、かつてこの地を治めた草間氏からきているもので、草間氏は室町時代の頃からこの地を治めるようになり、城も築いていました(現在は写真⑤のように跡地道標だけが残っています)。しかし川中島合戦の際、武田軍勢により城を焼かれ、草間の一族郎党は越後に逃れ、上杉謙信の配下となったということです。このためこの草間の地には、草間姓は1軒もなく、新潟県高田には20軒程、草間姓を名乗る家があるということでした。
このように、草間氏のルーツは、殿様であったというのは大きな感動でした。
そもそも私は茨城県の農家の生まれで、高校卒業後、上京し、そのまま東京に居着いて40数年もたっているわけですが、いまだかつて同じ草間姓の人には2人の人にしか会っておらず草間という苗字は非常に珍しい姓と思っていました。しかし茨城県の実家の近所には草間姓が数軒もあり、この中で我が家は本宅と呼ばれていたため、もともとは最初の草間姓を名乗る人がどこからか移り住んできて、今の草間家があるのだろうと思っていました。そこで父に『ご先祖はどこからきたのか』と聞いたことがありました。
父は何代も前のことで良くは分からないが言い伝いによれば、ご先祖は〝測量の仕事〟をしながら各地を渡り歩き、最終的にこの地が気に入り定着したらしいということでした。
このことを聞いてから多分ご先祖は江戸時代あたりにこの地に移ってきたのだろうとは思っていましたが、今回のことを加味して推理しますと、この〝測量士〟だったというご先祖は高田に逃れた草間一族の1人であったのではないかと思われます。
こんど茨城県の実家に帰ったら、菩提寺を訪ね、できれば過去帳を見せていただき、草間のルーツを探ってみたいと考えています。
貴重な情報、草間区誌。
平成11年発刊の草間区誌(写真⑥)によると、〝草間氏は長野県諏訪市より移りきて、1394年にこの草間の地に城を築き約167年に渉り、この地を治めた。五代目草間主殿介浄養のとき1559年の川中島合戦で武田勢により、居城を焼かれ、浄養は上杉謙信を頼り越後に亡命、その後1561年の川中島合戦で討ち死した。
これにより草間の地は武田氏の手に落ちるが、後の武田氏の滅亡、織田信長の死後、再び上杉領となり、越後に亡命していた豪族たちは、還住したが、草間氏は主家が入封のため、還住は叶わなかった。当地に草間姓が1軒もないのはこのため〟とあります。
全国の草間さん、お便りください。
ところで全国に何人おられるか分かりませんが、全国の草間姓の方々で、このコラムを読んでいただいた草間のみなさん。ぜひ感想をお送りいただければ幸甚です。
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